「東京の味噌」
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巨大市場江戸の味噌
 
江戸開府−人の流入、みその移入

一五九〇(天正一八)年に徳川家康が初めて江戸城に入ったとき、この土地は農家がわずか百戸足らずの寒
村にすぎなかった。そこに町割りして城下が整備され、一六〇三(慶長八)年に幕府を開いたときには日本一の大都市に変貌していた。この急変ぶりは、都市構成を旧来の様式にとらわれず、武家独創の商業都市として建設したことによるものであろう。家康が引き連れてきた三河商人をはじめ、全国各地から商工業者が集まった。さらには参勤交代制によって各藩の大名屋敷がつくられると武士の数も増え、江戸は出自の異なる人々で埋め尽くされ、さまざまな地方文化が交錯することになったのである。
食の文化も当然、人の流入に従って各地から導入されたのであろうが、それらが混在する中で、ちょうど人に「江戸っ子」気質が生まれたように、料理にも「江戸前」がつくりだされてきた。その料理を支えるみそも、開府の初めには尾張の豆みそが運ばれ、続いて近県の「手前みそ」が移入されてそれぞれの嗜好を満たしてきたが、やがて江戸市中でもみそづくりが行なわれ、その中から江戸の食生活に見合った「江戸甘みそ」が登場する。

江戸開府の初めにはみそ麹屋も四、五軒用意され、今に麹町の名を残したが、のちに本郷にその中心を移して大正初期にまで続いた。当時の町方書上げの条に〈本郷春木町二丁目、味噌麹高買、伊勢屋久右衛門儀、延宝四年(一六七六)辰年中より麹高買仕、住居、土間に糀室有之、入口間口一間四方にて、長さ三間程有之候、外名前のもの右に準ず、銘々室所持仕罷在侯〉とあり、本郷付近には同じような店構えのみそ麹屋が並んでいたと伝えられる。みそ麹屋のあるところ、みそもつくられる。江戸のみそ蔵も本郷に集まり、さらに本所・深川・浅草・市ヶ谷などに広く散在していたという。
一六二五(寛永二)年に町奉行から指示された問屋扱商品には、米・塩・薪・炭・銭・酒・みそ・灯油・魚油・しょうゆ・綿布・くり綿の十二品目があり、これらは問屋を経由しないで売買することは禁じられていた。府内でつくられたみそも、近県や関西・尾張から移入されたみそも、すべて問屋を通じて売られたから、人の流入に従ってみそ問屋も増え、一七〇〇年代には三百十余人があったという。この間屋仲間は天保改革
一八四一年)で解散させられたが、一八五一(嘉永四)年に復活されている。
なお、一七二五(享保一〇)年の記録に、江戸入港船舶の貨物高のうち、みそ問屋の取扱高二千八百二十八樽とあるが、当時の江戸の人口は百万人を超え、みその消費も現代とは比較にならない多量消費であったから、一樽正味十八貫詰としても五万貫余、一人当り年間五十匁ではいかにも少なすぎる。これは一年間の集計とは思えないが、近県のみそで問屋を経由せずに小船で運ばれたものが多かったとも考えられる。残念ながら、莫大な数にのぼるであろう江戸のみそ消費量について、確かな記録は見つかっていない。みその小売値段についても、天明年間(一七八一〜八九)に銭百文につき上みそ二百五十匁、中みそ三百匁、下みそ三百五十匁、下の下が四百匁という記録があるが、これは飢饉が続いたころであったから基準とはならないし、事実、一八三〇(天保一)年には天保改革の物価抑制政策もあって、銭百文につき七百五十匁に下がっている。
江戸文化爛熟の世相の中、あまりに身近な食品であったためだろうか、みそについての公的な資料はきわめて少ないのである。
それでもみそ問屋仲間の栄華は伝えられ、なかには豪商もいて茶道の風流に大金を惜しまず、享保年間の町人考見録には 〈亀屋某の味噌屋、肩衝の茶入を料金千枚に調え、右の御銀を車につみて白昼に引廻り請取渡致候と申伝う云々〉とある。また、蜀山人太田南畝の 『一話一言』 には天明飢饉で起こった「打毀し」事件の話があり、市ヶ谷のみそ蔵がそば杖をくらって壊されたことが〈同所田町通り出候所のみそ屋にて米春侯桶共山のごとくこわし、味噌、大豆、米等夥数有之、廿二日の朝、通がけに見侯〉と記されている。天明の大飢饉は東北から関西まで全国に及んだが、東北の餓死者十万と言われ、浅間山の噴火もあり、江戸では大火と開府以来の大水害があり、江戸・大坂では米価が騰貴して町人「打毀し」など騒乱を起こした。
江戸に移入されたみその中では、仙台みそが評価を得ていたようだ。仙台藩の江戸藩邸は市中に七ヵ所あり、江戸勤番の士卒三千人が常駐していたが、みそは仙台の藩のみそ蔵から海路はるばる送られていた。のちには原料を仙台から送って大井の下屋敷でみその醸造を行なうようになった。この仙台みその美味を聞き知った人たちの願いに応じて分け与えていたのだろうが、いつしか大井の下屋敷は「みそ屋敷」と呼ばれるようになった。この評判を江戸のみそ問屋が見逃すはずもなく、藩から分与を受けて販売したのであろう。
仙台みその名は、それまでの近県の「田舎みそ(麦みそ)」に代わって、たちまち府内に喧伝された。明治に入ると、江戸でのみそ醸造の事業は伊達家から仙台の八木家に引き継がれたが、明治中期ごろからはその製造法を東京のみそ醸造家にひろめ、大半の業者が仙台みその醸造を行なうようになった。

全国各地の「手前みそ」がそれぞれの色・味・香りを競って店頭をにぎわし、商品として成立するのは、江戸時代であり、その産業形態が整うのも江戸が先駆的であった。京都・大坂でもみそ商人は古い歴史を持っているが、商家でも伝統的にみそは自家の手づくりであり、「買いみそは主婦の恥」と言われて、貧しい市民だけが商家のみそを買っていた。ところが新興都市の江戸では、初めから旧家も伝統もない。なんのこだわりもなくみそ屋の赤みそや田舎みそを買い、さまざまな新しいみそをつくってきたのである。
 
都会人の好み−江戸甘みその誕生

全国各地の文化が集合する中で、江戸が消費都市として性格づけられてくると、食生活でも地方色にこだわらない独得の嗜好が生まれてくる。従来の赤みそ、仙台みそ、田舎みそ(麦みそ)、甘みそ、甘辛みそ、白みそなど多様な商品が競う中で、江戸っ子好みの高級な「江戸甘みそ」が誕生した。同じ甘みそでも関西地方などの白甘みそとは異なり、ダイズの香味が豊かで赤褐色の光沢のある甘みそである。
多糖少塩糖化型の米みそで、熟成期間はきわめて短く五〜十日くらいでできあがる。塩分が少ないから変質が早く、夏季だと一ヵ月も置けない。この新鮮さを命とするところが、江戸っ子の好みにかなったのであろう。また、激しい労働の汗を流す農山村地帯では辛みそが好まれ、潮風の中で働く漁村の人は甘みそを好むというが、江戸に移住して来た人は海辺の地方の出身者が多かったから、とろりと甘い独得の風味が受け入れられたのでもあろう。新鮮さを大切にするから醸造は江戸市中の生産者に独占され、それが「江戸甘みそ」の名を定着させ、江戸のみそを代表することになった。江戸のみそ市場を開拓した仙台みその全盛時にも、江戸の全需要の六割以上を占めるまでに愛用されていた。といっても、ダイズー石に米一石二斗を使う十二分麹で塩は三斗から四斗、高級品を誇りとしていたから、江戸っ子の自慢ではあっても貧しい町人にはあまり縁のないみそであった。
江戸甘みその需要は江戸時代から明治・大正・昭和と続き、「極(ごく)」と呼ばれて高級品ではあったが、東京の庶民にも常用されて需要の八割までも占めてきた。それが太平洋戦争の戦時統制で、多量の米麹を使う醸造がぜいたく品として禁止されたために、伝統ある江戸甘みその風味はいったん姿を消した。この統制は敗戦後まで十年も続いて解除されたが、その空白の間に食生活習慣が変化し、嗜好の移り変わりもあり、江戸甘みその存在は消費者に忘れ去られていた。生産者の一部では今なお、江戸甘みそがつくられているし、需要を呼び起こすために、昔ながらの風味を守るだけでなく、現代の嗜好に合わせた江戸甘みその新商品を開発するなどの努力もなされているが、かつての盛況には回復していない。
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